昭和40年05月27日 夜の御理解
今日は皆さんも、ご承知の方もございましょうけれども、教官、高橋正雄先生が、亡くなられまして、今日が、密葬があってるはずでございます、教団の、立役者と言うか、何時の場合でも中心になられて、あの老齢でご活躍をなさっておられた、もう教会にみえられただけでも何回だったでしょうか。もうお若い時からもう何回も、まあ、ある時代には、もう異端視される、された時代もおありになったんですね、それでもやはり金光教の何かという時には必ず、中央に引き出されるというような方だった。
ですから、もう金光教知らんでも高橋正雄先生は、知らん者はないというくらいに、有名な先生でしたんです、もう八十近くでおありになりますでしょうね、おそらく教葬になるだろうとこう言われております、来月の、十日の、御大祭、お祭がすんだ、明くる日十一日に、確かに教葬になるだろうと。今日、そういう話を聞き、聞いたんですけれども、その高橋正雄先生の、事ででございますけれど。
今日丁度、の福岡の高橋さんが、今日お参りになってから、今朝ですね、まあ色々、何の話からだったでしょうか、先日から、あの、御理解に頂きましたですね。高橋正雄先生の、「祈りてしるす」っていう本、「物は皆、関係において存在するのであり、事は全て関係によって展開するのである」という、まあ大変・・、ちょっと考えても分からんような言葉ですね先生の場合、そのことを。
あの私が家に、私と猫との関係ですたいね、を問えて、あのこういう風に展開してくるんだと言う様な御理解を頂き、時の話が出たんです。それからあの、まあ次々高橋正雄先生の、あ、言わば追憶談でございましたけれども、本当に素晴らしい先生でしたですね、早稲田を、の哲学部を、早稲田大学が始まって以来、後にも先にもこのくらい頭の良い先生は、なかったっていう(?)頭のいい方だったらしいですね。
だから哲学、早稲田の方の、教授に、ということがあったんですけど、やっぱりあの教団人として、お道の先生として、お役に、御用にたたれたわけなんですが、それがやっぱ丁度、これがおそらくの最後の、座談会に出席されたんだろうというですね、「高橋正雄先生の全て」というのがこの「金光教青年」という雑誌に毎月のってくるんです、これ最後の、だからまあ座談会だろうとこう思うですがね。
それにこういうような見出しで、こういう事を高橋まさお先生に、質問申し上げているんですね、私もこの内容読んでいないんですけれども、「信ずるという事はどういう事なのか?」という事、高橋先生の場合いつもそんな風な言葉で書いてあるね、「信ずるということはどういう事なのか?」と、今日私それを高橋正雄、高橋さんがと話しさせて頂きながら「信ずるとは信ずる事くさい」っち(笑)もう私流儀でその、ね、皆さんどう思われます、「信ずるという事はそういう事なのか?」ね。
「信ずるっちゃぁ信ずる事くさい」っち、他にないような気がするんですね、けどそこんところが矢張りあの、学を修めておられる、特に哲学を専行しておられますから、もう「信ずる」という事をです、おそらく、先を読んでおりませんけれども、その、「信ずる」という事についての、おまあ哲学的なまあ深い意味合いにおいての、ご返事がこれになされておるでしょうと思うんです私は読んでいませんまだ、ね。
けれども、皆さん、ここんところはですね、私は信心さして頂くならば、本当に分からなければいけないと思うんですよ、ね、「信ずるということはどういうことなのか?」と、まあ、言いかえますとですね、私共がこうして信心の稽古をさして頂いておるということはですね、ね、言わば、神様を信じる稽古なんですよ、ねぇ。何時か私頂きました「信ずるば成り」と「信ずれば成り」ですかな。
「信じておるからこそ」という意味なんですよ「神様を信じておるからこそ、どんな辛抱でも出来るんだ」という意味なんですこれは「信ずれば成り」と頂きましたかね何時か、どういう例えばうんなら、貧乏くじ引かねばならない様な場合でもです。どういう風に、自分が損になる様な場合でも、痛い痒い思いをする場合でもです、ね、神様を信じておれば、そこんところを有り難く頂いて行けれるという事なんですから、結局あの信ずる事によって、言わば本当の安心を頂けるという事になるのです。
神様を信じておる、どういう風に信じておるかというと、この神様はです「この神様はおかげを頂かなければ立ち行く事ではない」という神様、ね。だからそこんところを、まあ「信ずる」と、信ずる度合いというものがです、信心さして頂くに従って段々、深うなっていくという事、広うなっていくという事、ね、これは「信ずるという事はどういう事なのか?」という事に対して、「どういう事だろうか?」と。
私はまあ、「信ずるという事は信ずる事くさい」と、「他にないもんか?」と、いうまあこれは私の流儀の考え方なんですけれども、ね。それから私すぐここ御結界ついたんですよそしたらね、今私がその「信ずる」という事について、という事に対して神様がここに座った途端にご返事下さるんですよ、それがですね「信ずるという事は成る事だ」と仰るですね、「成る」という事は、「自然に成就するという事だ」という事、皆さんこの辺がお分かりでしょうか。
これは私が以前に頂きました御理解の中にね、「神は信ずる者を信ずる」と仰いますね、神様を信じておる者を神様は信じて下さるんだということね、「信ずるということは成ることだ」と、これはもう結論答えなのです、説明ではないですね、私共が「信じておる」とこう言う、そんならです必ず何時の日にかそれが成就しなければならんです。こういう所に私はあの、私自身のこの「自然を尊ぶ」とか「成り行きを尊ばしてもらう大事にする」と言った様な事を、何故大事にせなければおられないかというと。
そういう場合にいつうもこの様々な事に、非常な関連を持っておる事なんですね、私そういう風に頂いてから、自然「信ずるという事は成ることだ」と「成ることだ」と。「成る事とはどういう事だろうか?」と思ったら、ああ心眼に頂くのがですね「草冠に成」を頂くんですよ、いわゆる「茂」という字なんです、ね、いわゆ私がです例えばかく信じておるという事はです、必ずおかげになるという意味なんです自然に、ね。
それを頂きましたらすぐあの、久保山先生んとこの茂さんが参ってきたです、もうこういう事にも関連性があるでしょうが。私そう言うてからその後でしたもんね、茂さんが参りだしたのは、ははぁだからもう茂さんが参ってきよる事も、言わば教えておられる訳ですよね、そういう所に私は本当にここに座らせて頂いたらです、もう本当にある意味合いにおいてですよ、確信を持ってお取り次ぎが出来るんです何時の場合でも。
先ほどもでした、キヨシさんから、今親子で参ってありますけれど、そのキヨシさんから電話がかかってまいりましてですね、「只今青木さん所のご主人が、」あの、大変具合が悪かったです、それで病院に入院してあったんですけれども、「あんまり病院で苦しいもんですから。今朝から帰ってきとります」っと言うてお届けが、青木さんからあっておったです、奥さんから。
そして只今その青木さんが堤さん所においでみえられたんでしょう、「椛目に電話かけてくれ」という事急に容態が悪くなって、その悪くなったわけなんですね、それでお医者さんは「手術をする」と言われ、でもうそこに迷うておられるわけなんです。それで私はそ、お電話、キヨシさんから聞かせて頂きながら、「手術せずにおかげを頂きなさい」って言うて、こ、いわゆる確信を持ってお答えがでけたわけなんです、ね、
それは、その、それは神様を信じておるから、っておるからだけじゃなくてですね、信じなければおられないような事が次々とですね、私のここでの中に働きがあるからなんです。例えて申しますとですね、私が何時もこのお届け帳の一つの不思議さといものを何時も申しますでしょ、ね、例えばね久富勇さんのお届けがあったんですよ、奥さんから今晩、お初穂がたんとしてから、久富勇さんで次に、青木勇さんなんです。
そして中島勇三さん、やっぱ勇というのが三つ続くんですこやって、「はあおかげ頂くな」とこう私が思うんですよ、ね。そして次には中島泰郎とこう、安心な泰郎の「泰」という字を頂くんです、続けて「勇勇勇」と頂いてつぎ、次にこの「泰」という字ですたいね、「ははぁおかげ頂く」と、こう思ったから、それは「手術せずにおかげを頂きなさい」とこう確信を持って言えれる、その確信がです確信の度合いが、椛目ではみんなおかげの度合いになってるんですよ椛目では。
だから勿論これで良いという事はありません、私がもっともっと神様を信ずる力を頂かせてもらうということ、ね、ためにはうんなら私がここで、その何と言うですかその遊び半分では信ずる心はますますなくなっていくだけなんです、ね、それには私は私なりのやっぱ修行をさして貰い、私なりの信心をさして頂いている所にです、成り行きを愈々尊ばしてもらい、成り行きを愈々大事にさして頂くところにです。
もうその場その時にです、そう確信してお答えが出来れる、そう確信して私自身も思えれる様な働きが、例えばお届け帳の、上にでもこうやって現れてくるわけなんです、ですから皆さんどうでもその、成り行きを大事にし知らなければですたい、ここにきや乱れてくるです、何時の場合でも私この辺のところをですね、椛目の信心のいわゆる素晴らしさと言うでしょうかね、この辺を皆さん体得なさらなければいけんです、ね。
そしていよいよ確信が持てれる、「もう先生もう神様信じております」という皆さんが言われる、その「信じとります」がですたい、ね、成就にならないならばです、ね、それは、いわゆる本当の「信じておる」じゃないという事になるでしょうが、「信ずるという事はどういう事なのか」と、信ずるという事は、ね。「信ずるということは成ることだ」とこう仰る、「成就するという事だ」と。
そのことを頂いてから、まあ久保山先生と二人で話した事ですたいね「神様の知恵」と言うか「神様のお言葉」と言うか「もう一言で決まるですね」って言うて言うた事でした、ね。例えば高橋まさお先生なら素晴らしい先生でもですね「信ずるという事はどういう事なのか?」という事を、やっぱ何ページにわたって説明をなさらなければならない、ならそれでもうんなら説明し尽くされるという事はないと思うですね、
けれども神様のお言葉は、その一言なんです「信ずるということは成ることだ」とこう。そこで皆さんは日々その、神様を愈々信ずる力を養うていくために、信心の稽古をなさっておるのであり、皆さんが様々たずさわられておるところの問題もです、難儀もですね、信ずるためのそれは信ずる力を養うための、それだという事になるでしょね。どうぞひとつ確信神様を信じきれる所に、必ず頂けれるのは心の安らぎなんです、安心なんです、ね、その安らぎがその安心がです、おかげを生んでいくのです、いわゆる成っていくのです「信ずれば成り」であり、ね「信ずれば成り」これはあの
「成る」という字じゃないですよ、「信ずれば成る」ということは、信ず、信じておればこそ、どういうような問題の場合でも、びくともせんですむのである、ということなんです、赤ずら弁慶になって嫌ですることはいらんということなんです例えて言うならば、神様を信じておるのだから、「神様だけがご承知の世界に生きぬくことが信心だ」と、信じておるから。
言わば、例え、こちらの顔にかかるようなことを言われても、それを黙って、受けて行けれるとこういうことなんです、ね。次にその、「信ずれば成り」あの、「信ずる」ということはです、「成ることだ」というのはこれは「成就」ということなんです、ね、「信ずる」ということはですね、成る、成っていかなければいけません、成就していかなければいけません。だから、私共の願いがです、一つ一つ成就していくためにいよいよ皆さんの確信というかね、
信念というか信ずる心というものを、高めていくために深めていくために、もっともっと専念し、また信ずる心になるためにです、信心の稽古を惜しんではならないということになるわけですね。今晩、高橋正雄先生の、おそらく本部では、密葬が、あられたに違い、ございません、まあご冥福を祈る、(?)において、高橋正雄先生のことども、まあ、おりまぜてから、皆さんに聞いて頂いたようなわけなんです。
おかげを頂きましょう。